気ままな日記一覧

旧街道歩き

2016年から2017年にかけて、旧東海道(513km)を、2017年から2018年には旧中山道(537km)を完全踏破してきた。
ほとんどは、自宅からの日帰りですませていたが、遠くなると往復に時間がかかるようになるため、宿泊しながらの工程であった。

この次として、日光街道を歩くこととした。

 

2019年02月06日

日光街道(1)

旧東海道、中山道と踏破してきたが、この次として日光街道を歩くこととした。
街道の起点である日本橋で、ここから歩き出すのはこれで3回目となる。

街道の起点の日本橋

 

JRの浅草橋駅横を通りしばらく歩くと雷門の正面につくが、門の周辺は観光客でごった返している。この日は日曜日だったためかもしれないが、外国の人が多いようで、曜日に関係なくいつも多いのかもしれない。

浅草雷門

 

南千住で線路を超えたところに小塚原刑場跡があり、ここにある大きな地蔵は首切り地蔵と呼ばれている。この刑場で処刑された人の腑分け(解剖)が、解体新書の翻訳に結びついたようである。
東海道でも江戸の入り口にあたる大森海岸付近に鈴ヶ森刑場があったが、刑場は江戸の外に設けたようである。
ちなみに、小塚原刑場の前の道は「コツ通り」と呼ばれているようである。

 

小塚原刑場跡の首切り地蔵

 

南千住駅からすこしのところで、隅田川にかかる千住大橋をわたるが、ここが松尾芭蕉が奥の細道へと旅立った場所とも言われるが、芭蕉の深川にある住まいから船で千住まで来て、ここで初めての句を詠んだことから奥の細道の起点とみなされているようである

奥の細道矢立初めの地碑

 

今回歩いた距離は短く、北千住駅から帰宅した。14,800歩。(2019年2月3日)

2019年02月06日

日光街道(2)

日光街道の2日目で、前回の終点である北千住駅からスタートした。

北千住駅から少し西側にある道が旧日光街道の千住宿であるが、両側はほとんど新しい建物になっておりあまり宿場町の面影はないが、数軒の古い家があり、これは絵馬屋。絵馬や祭りのときに飾る行燈に絵を描くことを生業としているそうである。

千住宿の絵馬屋

 

千住宿を出てすぐに荒川を渡る。旧中山道を歩いた時も熊谷宿の手前の行田付近で荒川の土手を通った。この時は対岸の土手がどこにあるか分からないくらい遠くにあり驚いたが、ここでは十分に整備されているためかそれほどでもないが、やはり広い川である。

千住塾付近の荒川

 

荒川から先の草加宿までは、旧街道とは思えないくらいの直線の道である。中山道の大宮付近でも直線に近い道であったが、関東平野の平らな土地のためであろう。
草加宿は草加せんべいが有名であり、草加せんべい発祥の地の碑まであった。大きな丸い碑の横にある細長い柱は、せんべいを焼くときの箸をイメージしたものとかで、妙なところにこだわりを持っている。

草加せんべい発祥の地の碑

 

草加松原

 

草加宿を出ると綾瀬川に沿った草加松原であるが、一見は最近作られた 遊歩道のようにも見えるが、これが江戸時代に作られていたとは驚きである。草加松原を横切る道路には、昔の太鼓橋に似せた歩道橋が設置されているが、すぐ下には信号のついた横断歩道があり、ほとんど設置する意義が感じられない。観光のための目玉と考えているのであろうか。

草加松原にある太鼓橋に似せた歩道橋

 

この日はJR南越谷駅から帰宅した。22,500歩。(2019年2月7日)

2019年02月06日

日光街道(3)

日光街道歩きの3回目で、前回の最終地点であるJR南越谷駅からスタートした。

越ケ谷宿は、JR南越谷駅から2km近く北に歩いたところにある。何軒かの旧家が残っているが、全体に宿場町の雰囲気はあまり感じられない。残されているものは蔵造りのもので、火災に備えたものであろう。

越ケ谷宿の蔵造の商家_1

 

越ケ谷宿の蔵造の商家_2

 

越ケ谷宿から粕壁宿までの多くの部分が国道4号線と重なっており、はほぼ単調な道である。粕壁宿は春日部市の中心部にある。宿場の名前は「粕壁」であるのに市は「春日部」と文字が違っているが、昔行われた町村合併の際に表記を変えたとしているが、なぜ変えたかは少し調べたがわからなかった。粕壁にも古い商家が数軒残されていたが、写真は撮らなかった。

粕壁宿から次の杉戸宿までも、ほぼ国道4号線に沿っている。杉戸宿の近くで国道から分かれて県道に入るが、ほぼ旧街道の道幅のようで、狭くなっている。宿場に入るころから旧家が点在するようになり。写真は造り酒屋。

杉戸宿の造り酒屋

 

歩いていると、時々くしゃみが出たり少し目がかゆくなったりし。杉花粉が飛び始めたと感じ、花粉が収まるまでしばらくは街道歩きも中断することになれそう。
この日は東部動物公園駅から帰宅した。27,900歩。(2019年2月21日)

2019年02月25日

日光街道(4)

日光街道歩きの4回目で、前回の最終地点である東武動物公園駅からスタートした。

東武動物公園駅はもともと杉戸駅の名前であったものが、動物公園を造った際に名前をかえたとのことであるが、由緒ある宿場名を残さないのは残念な気がする。
東武動物公園駅はほぼ杉戸宿の中心に近く、旧家もいくらかは残っている。


杉戸宿を通り過ぎしばらくすると、日光街道と日光御成道との合流点がある。日光御成道は徳川将軍が日光に参詣する時に利用した道で、今の東京大学付近にある本郷追分から分かれ、ここに至っている。


次の幸手宿は、国道4号線が通り(現在は国道は町の外側を通るバイパスが作られ、県道となっている)、宿場町の雰囲気はまったく残っていない。幸手宿を出ると、右手に権現堂公園が見えてくる。ここはもともと洪水から江戸を守るために作られた堤であるが、現在はさくらが植えられており、観光の名所となっている。この時はさくら祭りは終わっていたがまだほぼ満開の状態で、平日にも関わらず多くの人が訪れていた。


幸手宿からもほぼ国道4号線に沿った道であるが、ここの国道は自動車専用の道となっているため、国道の西側に沿った下道を歩くこととなる。右側を国道の基礎が壁のようで景色はよくなく、次の栗橋宿まで続く。
栗橋宿もほとんど宿場の雰囲気は感じられなかった。

この栗橋宿までは武蔵国であるが、このあと利根川を渡り下総国に入る。日光街道は埼玉県から直接栃木県に入るものと思っていたが、ここで利根川を渡り、一旦茨城県に入るとは意外であった。写真は利根川で、東北本線の鉄橋が見える。


利根川を渡るとすぐに中田宿となるが、ここでも全く宿場町の雰囲気は感じ取れない。ここから古河宿までも単調な道である。写真は古河宿の入り口にあった行燈風の看板。


この日は古河駅から帰宅した。30,000歩。(2019年4月11日)

2019年04月13日

日光街道(5)

日光街道歩きの5回目で、前回の最終地点である古河駅からスタートした。

古河駅は古河宿の中心から近いところにあるが、道は拡張され開発が進んでおり、旧街道のイメージは全く失われているが、街道の雰囲気を出すためであろう行燈風の街路灯が設置されておりもこの側面には古河宿にまつわる逸話が書かれている。
古河宿はもともと古河城の城下町であったためであろうが、街道は真っ直ぐではなく一部鍵型に折れ曲がった道が残っているが、直線に新しい道が付けられており、知らなければ、そのまま直線の道を進んでしまう可能性がある。


古河宿を抜けると、道は再度国道4号線と重なり、次の野木宿に至る。野木宿はあまり家が固まっているわけでなく、野木宿入口の小さな案内板がある程度で、すぐに通り抜けてしまった。ここから次の間々田宿までも国道44号線と重なり、坦々として道が続く。
この付近には豊かな農家が多かったのか、立派な長屋門がいくつか残っている。

 


間々田宿近くには乙女の地名あり、会社名などに付けられているだけでなく、葬儀場にまで"おとめホール"と付けられており不思議な感じがした。下の写真は「乙女八幡宮」の参道。


間々田の宿場の中に、「逢の榎」があり、江戸と日光との中間点(どちらからも18里)にあり、もともと間の榎と呼ばれていたものがいつか「逢」に変わり、縁結びの木として信仰を集めたとのこと。

 


小山の手前で国道から外れて市街地に入っていくが、もともとは国道であったものが、バイパスの建設によりみ工藤から降格したもののようで、道幅も広く、旧家などもなく、単調な道となっている。


この日は小山駅から帰宅した。24,000歩。(2019年4月28日)

2019年04月30日

日光街道(6)

日光街道歩きの6回目で、前回の最終地点である小山駅からスタートした。

小山宿もただ市街地を通り抜けただけの感じであったが、その後国道4号線には戻らず旧道に入る。しばらく歩くと左側に喜沢の一里塚があり、ほぼ完全な形で残っている。右側につ塚の跡のようなものも残っているが、ここには案内板も標識も何もなく、案内書がなければ気が付かずに通り過ぎてしまうところであった。案内板位は設置してほしいものである。


小山宿の次は新田宿であるが、この宿の本陣には建物は残っていないが、門だけは残っていた。この門の横には「奥州道中 大町新田宿 本陣」と書かれている木の板が打ち付けられているが目立たないため見逃しそうである。この表示には奥州街道とされている。厳密にはまだここは日光街道であるが、どうも奥州街道と日光街道が重なっていると思われているようである。


新田宿から次の小金井宿までは国道を右や左にうねるように沿っている旧道であり、距離も3km弱と比較的近い。小金井宿にある小金井の一里塚は珍しく両塚が残されているが旧道はなく、両塚を取り込んだ公園のようになっている。


小金井宿でも宿場町の雰囲気は感じられず、ほとんど古い家も残っていないが、蔵造の商家らしい家が2軒残されていたが、どちらもその外側にパイプで枠組みのようなものが作られており、修復するのか解体するのかと思ったが、数年前に撮られた写真でもこのような状態であったようで、道路側に崩れないようにはているだけなのかもしれない。


この付近にはいくらかの桑畑が残っており、近くでは養蚕されているようである。この写真のように手入れされているところ以外にもも放置された桑畑も散見された。


この日は石橋宿まで歩き、石橋駅から帰宅した。22,000歩。(2019年5月9日)

2019年05月10日

日光街道(7)

日光街道歩きの7回目で、前回の最終地点である石橋駅からスタートした。

石橋宿から次の雀宮宿までも国道4号線に沿った道であり、街道の雰囲気は全くない。途中には小さな宮や祠があり、説明を読むと歴史はあるようだが、見た目からは古いもののようには感じられなかった。
雀宮宿でも同様にほとんど残っていないが、下の写真は珍しく残っている脇本陣の門と後ろの建物は式台の部分であり、座敷については残っていない。


小山宿あたりまでは、長屋門がいくらか見受けられたが、石橋宿付近からは全く見なくなり、その替わりではないだろうが宇都宮に近づくにつれて、大矢石で造られた蔵が見受けられるようになった。これは大矢石の産地が近くなったためと思われる。


宇都宮宿の近くからはこれまでの国道4号線から分かれ、国道119号線に沿った道となる。宇都宮は奥州街道の起点であるが、その分岐点である追分には古い石碑などはなく、新しい標識が設置されているだけであり、拍子抜けの印象であった。


日光街道は追分から右折していくが、しばらくは旧街道の道幅と同じような狭い道が続き、ここからは蔵造の商家がいくつか残されていた。

 


この日は宇都宮宿を少し超えたところまで歩き、バスでJR宇都宮駅まで戻り帰宅した。ここのバスは、SUICAのようなICカードは利用できず、地域差を感じてしまった。24,500歩。(2019年5月23日)

2019年05月24日

日光街道(8)

日光街道歩きの8回目で、宇都宮宿を少し超えたところの前回の最終地点からスタートした。

しばらくはこれまでとあまり変わらず国道沿いの道が続くが、少し歩くと国道の両側に桜の並木道となる。ただすべてが桜ではなく、ヒノキやその他の種類も混ざっており、それぞれかなり古い木のようである。並木は道路より一段と高い土手のようなところに植わっており、歩道はその外側であり、いわば土手の上を歩くような感じとなる。土手の場合はそれなりに平らな道となるであろうが、ここでは、道が交差するところだけでなく、道に出入りする車のためにその部分が削られており、土手を登ったり降りたりする頻度が高く、歩きにくい道といえる。


道路を走っている車からはほとんど両側の建物は見えず、目立つような大きな看板もなく、このため道路わきにはほぼ同じ色で同じ大きさの看板が設置されており、景観を保つように配慮されているものと思われる。ただ、新しいものはこのスタイルからずれているように見受けられ、派手な色も使用されているものもあった。


下の写真は上戸祭の一里塚であり両塚とも残っているが、並木に隠されて見づらくなっている。この後も結構一里塚が残っているが、案内板がないと見逃してしまいそうである。


宇都宮宿に続く徳次郎宿、大沢宿では並木が途切れて少し集落があるが、どちらにも古い家や本陣跡などは残っておらず、宿場町を歩いた感じは全くなかった。
大沢宿の手前に並木寄進碑があり、ここらから日光までが松平正綱公が寄進した杉並木で、立派な杉が並んでいる。杉並木は日光街道だけでなく、例幣使街道や会津西街道も寄進されており、本当に日光は杉だらけでスギ花粉症では生活し難そうである。


この日は大沢宿で終了。30,400歩。(2019年6月1日)

2019年06月03日

日光街道(9)

いよいよ日光街道歩きの9回目で最終回。前日の終了地点の大沢宿からスタートした。

大沢宿では国道と一致していた街道も、すぐに国道と分かれる。


道は舗装されており、もともと国道とされていたが、国道を付け替えたために別の道として残されたような印象を受ける。それにしても立派な杉並木が続く。
しかし国道と一致する部分では歩道がなく。車道の端を歩かなければならずあまり安全とは言えない。


ここでも一里塚はほぼ完全に残されており、塚に植えられている木も立派なものである。下の写真は七本桜の一里塚にある杉の木であるが、根本が空洞となっており、「並木ホテル」と呼ばれているとのことであるが、これは当然明治以降に呼ばれるようになったとは思うが、このような古くから古いものに対しての安易な呼び方には違和感を感じる。(もっとも屋久島にある縄文杉も同じようなものかもしれないが・・)


今市宿の手前で例幣使街道との追分があるが、こちらも立派な杉並木が残されている。

 

今市宿では、ようやく古い商家のようなものがあったが、大沢宿から日光まで唯一のものであった。今市は比較的大きな町であり、道の駅もあることからにぎわっていたが、少し外れるとまた杉並木が日光まで続く。


日光街道の最後の宿場は鉢石宿と呼ばれているが、宿場町の感じはなく、東照宮の門前町といった感じで、ここも外国人観光客が多く歩いていた。

日光街道の終点は町はずれにある日光橋を渡ったところであり、下の写真の橋の左側である。この写真はすぐ隣に架かっている神橋(重要文化財)の上から撮影したもの。


日光街道を完全に踏破して、目標は完了したが、せっかくなので東照宮にもお参りして終了とした。31,000歩。(2019年6月2日)

 

これで5街道のうち、東海道、中山道に続き日光街道も完全踏破できた。残るは奥州街道と甲州街道の2つとなった。

2019年06月03日