気ままな日記一覧

旧街道歩き

2016年から2017年にかけて、旧東海道(513km)を、2017年から2018年には旧中山道(537km)を完全踏破してきた。
ほとんどは、自宅からの日帰りですませていたが、遠くなると往復に時間がかかるようになるため、宿泊しながらの工程であった。

この次として、日光街道を歩くこととした。

 

2019年02月06日

日光街道(1)

旧東海道、中山道と踏破してきたが、この次として日光街道を歩くこととした。
街道の起点である日本橋で、ここから歩き出すのはこれで3回目となる。

街道の起点の日本橋

 

JRの浅草橋駅横を通りしばらく歩くと雷門の正面につくが、門の周辺は観光客でごった返している。この日は日曜日だったためかもしれないが、外国の人が多いようで、曜日に関係なくいつも多いのかもしれない。

浅草雷門

 

南千住で線路を超えたところに小塚原刑場跡があり、ここにある大きな地蔵は首切り地蔵と呼ばれている。この刑場で処刑された人の腑分け(解剖)が、解体新書の翻訳に結びついたようである。
東海道でも江戸の入り口にあたる大森海岸付近に鈴ヶ森刑場があったが、刑場は江戸の外に設けたようである。
ちなみに、小塚原刑場の前の道は「コツ通り」と呼ばれているようである。

 

小塚原刑場跡の首切り地蔵

 

南千住駅からすこしのところで、隅田川にかかる千住大橋をわたるが、ここが松尾芭蕉が奥の細道へと旅立った場所とも言われるが、芭蕉の深川にある住まいから船で千住まで来て、ここで初めての句を詠んだことから奥の細道の起点とみなされているようである

奥の細道矢立初めの地碑

 

今回歩いた距離は短く、北千住駅から帰宅した。14,800歩。(2019年2月3日)

2019年02月06日

日光街道(2)

日光街道の2日目で、前回の終点である北千住駅からスタートした。

北千住駅から少し西側にある道が旧日光街道の千住宿であるが、両側はほとんど新しい建物になっておりあまり宿場町の面影はないが、数軒の古い家があり、これは絵馬屋。絵馬や祭りのときに飾る行燈に絵を描くことを生業としているそうである。

千住宿の絵馬屋

 

千住宿を出てすぐに荒川を渡る。旧中山道を歩いた時も熊谷宿の手前の行田付近で荒川の土手を通った。この時は対岸の土手がどこにあるか分からないくらい遠くにあり驚いたが、ここでは十分に整備されているためかそれほどでもないが、やはり広い川である。

千住塾付近の荒川

 

荒川から先の草加宿までは、旧街道とは思えないくらいの直線の道である。中山道の大宮付近でも直線に近い道であったが、関東平野の平らな土地のためであろう。
草加宿は草加せんべいが有名であり、草加せんべい発祥の地の碑まであった。大きな丸い碑の横にある細長い柱は、せんべいを焼くときの箸をイメージしたものとかで、妙なところにこだわりを持っている。

草加せんべい発祥の地の碑

 

草加松原

 

草加宿を出ると綾瀬川に沿った草加松原であるが、一見は最近作られた 遊歩道のようにも見えるが、これが江戸時代に作られていたとは驚きである。草加松原を横切る道路には、昔の太鼓橋に似せた歩道橋が設置されているが、すぐ下には信号のついた横断歩道があり、ほとんど設置する意義が感じられない。観光のための目玉と考えているのであろうか。

草加松原にある太鼓橋に似せた歩道橋

 

この日はJR南越谷駅から帰宅した。22,500歩。(2019年2月7日)

2019年02月06日

日光街道(3)

日光街道歩きの3回目で、前回の最終地点であるJR南越谷駅からスタートした。

越ケ谷宿は、JR南越谷駅から2km近く北に歩いたところにある。何軒かの旧家が残っているが、全体に宿場町の雰囲気はあまり感じられない。残されているものは蔵造りのもので、火災に備えたものであろう。

越ケ谷宿の蔵造の商家_1

 

越ケ谷宿の蔵造の商家_2

 

越ケ谷宿から粕壁宿までの多くの部分が国道4号線と重なっており、はほぼ単調な道である。粕壁宿は春日部市の中心部にある。宿場の名前は「粕壁」であるのに市は「春日部」と文字が違っているが、昔行われた町村合併の際に表記を変えたとしているが、なぜ変えたかは少し調べたがわからなかった。粕壁にも古い商家が数軒残されていたが、写真は撮らなかった。

粕壁宿から次の杉戸宿までも、ほぼ国道4号線に沿っている。杉戸宿の近くで国道から分かれて県道に入るが、ほぼ旧街道の道幅のようで、狭くなっている。宿場に入るころから旧家が点在するようになり。写真は造り酒屋。

杉戸宿の造り酒屋

 

歩いていると、時々くしゃみが出たり少し目がかゆくなったりし。杉花粉が飛び始めたと感じ、花粉が収まるまでしばらくは街道歩きも中断することになれそう。
この日は東部動物公園駅から帰宅した。27,900歩。(2019年2月21日)

2019年02月25日

日光街道(4)

日光街道歩きの4回目で、前回の最終地点である東武動物公園駅からスタートした。

東武動物公園駅はもともと杉戸駅の名前であったものが、動物公園を造った際に名前をかえたとのことであるが、由緒ある宿場名を残さないのは残念な気がする。
東武動物公園駅はほぼ杉戸宿の中心に近く、旧家もいくらかは残っている。


杉戸宿を通り過ぎしばらくすると、日光街道と日光御成道との合流点がある。日光御成道は徳川将軍が日光に参詣する時に利用した道で、今の東京大学付近にある本郷追分から分かれ、ここに至っている。


次の幸手宿は、国道4号線が通り(現在は国道は町の外側を通るバイパスが作られ、県道となっている)、宿場町の雰囲気はまったく残っていない。幸手宿を出ると、右手に権現堂公園が見えてくる。ここはもともと洪水から江戸を守るために作られた堤であるが、現在はさくらが植えられており、観光の名所となっている。この時はさくら祭りは終わっていたがまだほぼ満開の状態で、平日にも関わらず多くの人が訪れていた。


幸手宿からもほぼ国道4号線に沿った道であるが、ここの国道は自動車専用の道となっているため、国道の西側に沿った下道を歩くこととなる。右側を国道の基礎が壁のようで景色はよくなく、次の栗橋宿まで続く。
栗橋宿もほとんど宿場の雰囲気は感じられなかった。

この栗橋宿までは武蔵国であるが、このあと利根川を渡り下総国に入る。日光街道は埼玉県から直接栃木県に入るものと思っていたが、ここで利根川を渡り、一旦茨城県に入るとは意外であった。写真は利根川で、東北本線の鉄橋が見える。


利根川を渡るとすぐに中田宿となるが、ここでも全く宿場町の雰囲気は感じ取れない。ここから古河宿までも単調な道である。写真は古河宿の入り口にあった行燈風の看板。


この日は古河駅から帰宅した。30,000歩。(2019年4月11日)

2019年04月13日

日光街道(5)

日光街道歩きの5回目で、前回の最終地点である古河駅からスタートした。

古河駅は古河宿の中心から近いところにあるが、道は拡張され開発が進んでおり、旧街道のイメージは全く失われているが、街道の雰囲気を出すためであろう行燈風の街路灯が設置されておりもこの側面には古河宿にまつわる逸話が書かれている。
古河宿はもともと古河城の城下町であったためであろうが、街道は真っ直ぐではなく一部鍵型に折れ曲がった道が残っているが、直線に新しい道が付けられており、知らなければ、そのまま直線の道を進んでしまう可能性がある。


古河宿を抜けると、道は再度国道4号線と重なり、次の野木宿に至る。野木宿はあまり家が固まっているわけでなく、野木宿入口の小さな案内板がある程度で、すぐに通り抜けてしまった。ここから次の間々田宿までも国道44号線と重なり、坦々として道が続く。
この付近には豊かな農家が多かったのか、立派な長屋門がいくつか残っている。

 


間々田宿近くには乙女の地名あり、会社名などに付けられているだけでなく、葬儀場にまで"おとめホール"と付けられており不思議な感じがした。下の写真は「乙女八幡宮」の参道。


間々田の宿場の中に、「逢の榎」があり、江戸と日光との中間点(どちらからも18里)にあり、もともと間の榎と呼ばれていたものがいつか「逢」に変わり、縁結びの木として信仰を集めたとのこと。

 


小山の手前で国道から外れて市街地に入っていくが、もともとは国道であったものが、バイパスの建設によりみ工藤から降格したもののようで、道幅も広く、旧家などもなく、単調な道となっている。


この日は小山駅から帰宅した。24,000歩。(2019年4月28日)

2019年04月30日

日光街道(6)

日光街道歩きの6回目で、前回の最終地点である小山駅からスタートした。

小山宿もただ市街地を通り抜けただけの感じであったが、その後国道4号線には戻らず旧道に入る。しばらく歩くと左側に喜沢の一里塚があり、ほぼ完全な形で残っている。右側につ塚の跡のようなものも残っているが、ここには案内板も標識も何もなく、案内書がなければ気が付かずに通り過ぎてしまうところであった。案内板位は設置してほしいものである。


小山宿の次は新田宿であるが、この宿の本陣には建物は残っていないが、門だけは残っていた。この門の横には「奥州道中 大町新田宿 本陣」と書かれている木の板が打ち付けられているが目立たないため見逃しそうである。この表示には奥州街道とされている。厳密にはまだここは日光街道であるが、どうも奥州街道と日光街道が重なっていると思われているようである。


新田宿から次の小金井宿までは国道を右や左にうねるように沿っている旧道であり、距離も3km弱と比較的近い。小金井宿にある小金井の一里塚は珍しく両塚が残されているが旧道はなく、両塚を取り込んだ公園のようになっている。


小金井宿でも宿場町の雰囲気は感じられず、ほとんど古い家も残っていないが、蔵造の商家らしい家が2軒残されていたが、どちらもその外側にパイプで枠組みのようなものが作られており、修復するのか解体するのかと思ったが、数年前に撮られた写真でもこのような状態であったようで、道路側に崩れないようにはているだけなのかもしれない。


この付近にはいくらかの桑畑が残っており、近くでは養蚕されているようである。この写真のように手入れされているところ以外にもも放置された桑畑も散見された。


この日は石橋宿まで歩き、石橋駅から帰宅した。22,000歩。(2019年5月9日)

2019年05月10日

日光街道(7)

日光街道歩きの7回目で、前回の最終地点である石橋駅からスタートした。

石橋宿から次の雀宮宿までも国道4号線に沿った道であり、街道の雰囲気は全くない。途中には小さな宮や祠があり、説明を読むと歴史はあるようだが、見た目からは古いもののようには感じられなかった。
雀宮宿でも同様にほとんど残っていないが、下の写真は珍しく残っている脇本陣の門と後ろの建物は式台の部分であり、座敷については残っていない。


小山宿あたりまでは、長屋門がいくらか見受けられたが、石橋宿付近からは全く見なくなり、その替わりではないだろうが宇都宮に近づくにつれて、大矢石で造られた蔵が見受けられるようになった。これは大矢石の産地が近くなったためと思われる。


宇都宮宿の近くからはこれまでの国道4号線から分かれ、国道119号線に沿った道となる。宇都宮は奥州街道の起点であるが、その分岐点である追分には古い石碑などはなく、新しい標識が設置されているだけであり、拍子抜けの印象であった。


日光街道は追分から右折していくが、しばらくは旧街道の道幅と同じような狭い道が続き、ここからは蔵造の商家がいくつか残されていた。

 


この日は宇都宮宿を少し超えたところまで歩き、バスでJR宇都宮駅まで戻り帰宅した。ここのバスは、SUICAのようなICカードは利用できず、地域差を感じてしまった。24,500歩。(2019年5月23日)

2019年05月24日

日光街道(8)

日光街道歩きの8回目で、宇都宮宿を少し超えたところの前回の最終地点からスタートした。

しばらくはこれまでとあまり変わらず国道沿いの道が続くが、少し歩くと国道の両側に桜の並木道となる。ただすべてが桜ではなく、ヒノキやその他の種類も混ざっており、それぞれかなり古い木のようである。並木は道路より一段と高い土手のようなところに植わっており、歩道はその外側であり、いわば土手の上を歩くような感じとなる。土手の場合はそれなりに平らな道となるであろうが、ここでは、道が交差するところだけでなく、道に出入りする車のためにその部分が削られており、土手を登ったり降りたりする頻度が高く、歩きにくい道といえる。


道路を走っている車からはほとんど両側の建物は見えず、目立つような大きな看板もなく、このため道路わきにはほぼ同じ色で同じ大きさの看板が設置されており、景観を保つように配慮されているものと思われる。ただ、新しいものはこのスタイルからずれているように見受けられ、派手な色も使用されているものもあった。


下の写真は上戸祭の一里塚であり両塚とも残っているが、並木に隠されて見づらくなっている。この後も結構一里塚が残っているが、案内板がないと見逃してしまいそうである。


宇都宮宿に続く徳次郎宿、大沢宿では並木が途切れて少し集落があるが、どちらにも古い家や本陣跡などは残っておらず、宿場町を歩いた感じは全くなかった。
大沢宿の手前に並木寄進碑があり、ここらから日光までが松平正綱公が寄進した杉並木で、立派な杉が並んでいる。杉並木は日光街道だけでなく、例幣使街道や会津西街道も寄進されており、本当に日光は杉だらけでスギ花粉症では生活し難そうである。


この日は大沢宿で終了。30,400歩。(2019年6月1日)

2019年06月03日

日光街道(9)

いよいよ日光街道歩きの9回目で最終回。前日の終了地点の大沢宿からスタートした。

大沢宿では国道と一致していた街道も、すぐに国道と分かれる。


道は舗装されており、もともと国道とされていたが、国道を付け替えたために別の道として残されたような印象を受ける。それにしても立派な杉並木が続く。
しかし国道と一致する部分では歩道がなく。車道の端を歩かなければならずあまり安全とは言えない。


ここでも一里塚はほぼ完全に残されており、塚に植えられている木も立派なものである。下の写真は七本桜の一里塚にある杉の木であるが、根本が空洞となっており、「並木ホテル」と呼ばれているとのことであるが、これは当然明治以降に呼ばれるようになったとは思うが、このような古くから古いものに対しての安易な呼び方には違和感を感じる。(もっとも屋久島にある縄文杉も同じようなものかもしれないが・・)


今市宿の手前で例幣使街道との追分があるが、こちらも立派な杉並木が残されている。

 

今市宿では、ようやく古い商家のようなものがあったが、大沢宿から日光まで唯一のものであった。今市は比較的大きな町であり、道の駅もあることからにぎわっていたが、少し外れるとまた杉並木が日光まで続く。


日光街道の最後の宿場は鉢石宿と呼ばれているが、宿場町の感じはなく、東照宮の門前町といった感じで、ここも外国人観光客が多く歩いていた。

日光街道の終点は町はずれにある日光橋を渡ったところであり、下の写真の橋の左側である。この写真はすぐ隣に架かっている神橋(重要文化財)の上から撮影したもの。


日光街道を完全に踏破して、目標は完了したが、せっかくなので東照宮にもお参りして終了とした。31,000歩。(2019年6月2日)

 

これで5街道のうち、東海道、中山道に続き日光街道も完全踏破できた。残るは奥州街道と甲州街道の2つとなった。

2019年06月03日

奥州街道(1)

前回日光街道を制覇したので、次は奥州街道を歩くこととし、日光街道と別れる宇都宮宿伝馬町の追分からスタートした。

これまでも旧街道の追分はいくつも通ったが、全てのところには立派な道標があったが、ここには新しく作られたものしかない。道幅を広げた(片側3車線)としたために撤去されてしまったのであろうか。残念である。


伝馬町からは一旦宇都宮駅の方に戻るが、途中商店街などを通った後、宇都宮宿を通り抜ける。
少し歩くと立派な長屋門が見受けられた。宇都宮の手前でも多く見かけたが、このあたりには裕福な農家が多いのか、長屋門は無くても、立派な母屋をもつ農家が多い。昔ならった歴史では重い年貢で農民は虐げられていたように習ったが、どうもこれは違っているようで、最近読んだ本に、年貢はあくまで米に対してのみであリ、他の作物にはすべて農家のものであると書かれていた。どうもこの方が正しいように感じる。

 


白沢宿には江戸時代の公衆便所なるものが残されていた。これまで東海道、中山道、日光街道と歩いてきたが、このようなものに初めて出会った。建物の壁にはトタンが張られていたが、これは新しく張られたもので、裏に回り込めば昔のままの遺構が見て取れ、肥桶も残されている。
昔はおおらかであったため、トイレに行きたくなった時などは近くの藪の中に行って用を足していたのかとも思っていたが、これで納得できた。江戸の町には近くの農家が糞尿を肥料として買いに来ていたとされているが、街道の横に設置しておけば労せずして肥料を集めることができるため、街道に沿った農地の横には結構設置されていたのではないだろうか。


 

白沢宿は鬼怒川のすぐ横にあるためか水が豊富のようで、道の両側の用水路には豊富な水が流れており、おそらく観光用であろう水車が多く設置されていた。また、宿場の外れ付近にはきれいな水が必要とされる大きなクレソン畑も見受けられた。

 

 

白沢宿を抜けると鬼怒川の土手を歩くが、土手から少し降りたところに鬼怒川の渡し後の標識があるが、周囲は雑草に覆われている。

 

鬼怒川を渡りいよいよ氏家宿に入るが、宿場入り口にあった道標と馬頭観音。

 

この日はJR東北本線の氏家駅より帰宅。29,000歩。(2019年8月27日)

2019年09月01日

奥州街道(2)

奥州街道歩きの2回目で、JR氏家駅からスタート。
氏家宿は氏家駅から500m程度離れたところを通っており、それなりに家が並んではいるが、家か多い部分は短く、すぐに街から外れたようになる。

写真は氏家宿を出てすぐにあった長屋門であり、これは紡績で財を成した方の屋敷とのことで立派なものである。このあと国道に合流するが、旧道の雰囲気も何もなく単調な道が続く。

 


喜連川宿に近いところに旧道と言われるものが残っており、市指定の文化財となっている。道の両側はほとんど手が入れられていないようであるが、残念ながら距離も1kmも無いような短さで、さらに路面は舗装されたものである。ここはほとんど通る人がいないようで、路面の多くの部分は苔で覆われていて、滑りやすく歩きにくい。

 


喜連川は温泉があり、JR東の関連会社も温泉付き分譲住宅を販売しているため、宿場には温泉宿もあるかと思っていたが、温泉まんじゅうを売っている店や、日帰り温泉の看板は見たが、全くと言っていいほど何もない。
どうも温泉が散在しており、また温泉設備なども散在してしまったため、まとまった観光地にはならなかったものと見える。JR東の関連会社が分譲している温泉付き住宅も、喜連川から相当離れたところに標識があった。

喜連川宿からしばらく歩き、県道からそれて旧道に入る。この旧道はほとんど農道のようになっており、その両側には広いソバ畑が広がっており、白い花を咲かせていた。(この途中に南和田の一里塚があるとのことであったが、見つけられずに通り過ぎてしまった。帰ってから調べると、この農道からすこし東側に本来の旧道があり、これはほとんど狭い谷のような堀割状であり、この両側に一里塚はあったようだ。)


旧道かを抜けて1時間半ほど歩くと佐久山宿に入るが、ここもほとんど宿場町の感じは残っていない。何も写真をとらずに通り過ぎるのもしゃくなので、あまり古くはないと思えるが、なまこ壁の蔵があったのでこれを撮る。

 

佐久間宿から次の大田原宿までは県道となっている。
佐久間宿のはずれで。女性人連れで歩いているグルーブがいたので声をかけてみると、やはり奥州街道をあるいている人たちであった。奥州街道を歩いている人にはこの後も出会うことはなく、これまでの街道とは違い、歩く人が少ないとみえる。

この日は大田原宿まで。39,800歩。(2019年9月17日)

2019年09月24日

奥州街道(3)

奥州街道歩きの3回目で、大田原宿からスタート。
大田原は源平合戦で有名な那須与一ゆかりの地のようで、那須与一像があったり、商店街のマスコットにもなったりしている。


大田原から道は県道となる。次の鍋掛宿までの間に中田原の一里塚と鍋掛の一里塚の二つの一里塚があるが、中田原の一里塚は南側の塚は壊されていて、残る南側の塚は半分切り取られた形で残されていたものが、道路拡張のため1.5mずらすように移築されたとのこと。さらに次の鍋掛の一里塚は道路改修のため両側とも破壊されたが、北側のものは道路の擁壁の上に復元した(下の写真で、擁壁の上に説明板と塚らしいものがある。)とのことで、あまり史跡をのこそうとする考えは無いように見える。


次の鍋掛宿と越堀宿は、那珂川を挟んで近い距離にある。これは那珂川の渡しの川留に対応したものと見受けられる。間にある那珂川て゜は、アユ釣りの人も見受けられる。


鍋掛宿と越堀宿ともに少し家が多い程度で、ほとんど宿場の雰囲気は残されていない。越堀宿からも県道を歩くこととなる。腰越宿を出てしばらく歩くと、寺子の一里塚がある。これも道路改修に伴い取り壊された塚を、寺子一里塚公園内に復元されたもの。


続いて那珂川水系の余笹川を渡るが、何度も洪水の被害にあっているようで、いろいろな所に最大水位(最近のものでは平成10年のもの)が印されている。その水位からみると、付近の家はほとんどが床上浸水となっていたようである。
余笹川を渡るとすぐ近くに馬頭観音があるが、この石の横に、弁慶が踏み抜いたとされる草履跡とされる凹みがある(写真の石の右側)。まさか石を踏んだだけでこのような凹みができるとは思えないが、義経や弁慶への信仰的な思いが伝わってくる。

 

 

芦野宿に近くなったところに夫婦石の一里塚が、両塚ともそのままの形で残っていた。これまでほとんどの一里塚が破壊されたり、移設されていたので、うれしく感じる。


 

この日は芦野温泉まで。31,800歩。(2019年9月18日)

2019年09月25日

奥州街道(4)

奥州街道歩きの4回目で、芦野温泉からスタート。宿泊した芦野温泉は、芦野宿のすこし手前であったため、少し歩いて芦野宿についた。

芦野宿は古そうな家もいくらかは残っているし、宿場のほぼ中心には芦野宿と刻まれた石碑もあり、これまでの宿場よりは多少旧宿場町の雰囲気を感じさせる。


先の鍋掛宿や越堀宿にもあったが、この辺の家の屋根には、鬼瓦が立派なものが多く、鬼瓦に続くのし瓦も色が付けられたりしたデザインされたものが多く見られた。このようなものは他の場所では見なかったものである。


芦野宿の中心部に、すこし場違いな感じの石の美術館STONE PLAZAがあった。この付近から白河にかけて採掘された芦野石・白河石で造られた石蔵を再活用して美術館としたものとのことで、設計は隈研吾氏(国立競技場の設計者)という。しかし、あまり人の来ない(と思われる)ような所に、このようなものを作ったのだと感心する。


芦野宿のはずれには、高さ1.5mはあるような地蔵尊がある。芦野宿の手前やこの先にも、このような大きい地蔵がところどころに見えけられる。地蔵信仰が厚いだけでなく、加工のしやすい芦野石があったためであろうか。


鍋掛


芦野宿を出てすぐのところに遊行庵という野菜などの直売場があり、そこには軽く食べれるところがあったが、その後は次の白坂宿を越え、白河宿に近くなるまで売店や食堂、コンビニなと全く無い。前日の大田原付近から白河まで、この遊行庵だけが食べ物を確保できる所であり、歩く場合は要注意の所である。

つぎの白坂宿も多少の集落があるが、ほとんど寂れてしまっいいる。下の写真の右側にある案内板は本陣跡を説明したもので、この本陣跡には民家が建っていたが、左側の田んぼは脇本陣跡で、建物すら建っていない。

 

 

白坂宿を出て白河に近づくと、ようやく民家も多くなり、町に近づいた感じとなる。白河宿に入ると、はさすがに城下町だけあって古い家も数多く残り風情が感じられる。



珍しいところでは、脇本陣柳屋が修復されて残っており、奥に蔵造の座敷がある。ここに戊辰戦争の時に新選組が宿泊したとか、明治天皇も宿泊されたりしたとこことである。


白河宿を越え阿武隈川を渡った先に、奥州街道の最終地点である女石追分となるが、ここには追分の標識やなんらかの掲示板も何もない。
なにか拍子抜けしたような感じが残った。


これで奥州街道も完全踏破。36,000歩。(2019年9月19日)

2019年09月27日

甲州街道(1)

奥州街道を完歩したことで、五街道のうち残るは甲州街道のみとなった。
甲州街道をすぐにも歩き始めようと思ったが、台風15号と続く台風19号の影響で、中央線や中央高速道路が普通となるなどの被害が大きいようで、ある国も支障が出そうなので、しばらく様子を見ていたが、とりあえず少しずつ歩くこととし、再度日本橋からスタートした。

写真は日本橋のたもとにある日本国道路元標だけでなく、いろいろなものがは赤い唐草模様のような風呂敷で包まれていた。(どうも「FUROSHIKI TOKYO展」の一環でのものらしい。2019年11月2日)


日本橋からは東京駅に向かうが、東京駅が街道の上に建てられたようで、東京駅日本橋口から丸の内北口に抜けなければならない。
ここから皇居の濠まで抜け、お堀端を半蔵門まで歩いた後は、国道20号線に沿って歩くこととなる。途中の四ツ谷駅では少し国道から離れ、北側の道に入るが、ここに四ツ谷見附跡が残っている。


新宿に近づくと国道は地下のトンネルに入るため、旧道に入るが旧道とは言っても都会の中の道であり、旧道のイメージは全くない。
新宿駅付近が、内藤新宿の宿場となるが、この少し手前に、甲州街道と青梅街道との追分があり、どうろの交差点近くにそれを示した道標がたっている。


新宿からは初め少し国際通りと呼ばれる通りで国道から外れたところを歩くがその後はほぼ国道20号線(甲州街道)沿いとなる。京王線の笹塚駅の近くでね笹塚の一里塚跡の表示があるが、もちろん一里塚の痕跡は全くない。


日本橋から3里目である笹塚の一里塚の次にある下高井戸の一里塚ではその説明が甲州街道ではなく、「甲州道中一里塚」とされている。
街道は海道との意味もあったため街道とは呼ばす、道中とされたようである。このため他の街道も正式には奥州道中、日光道中と呼んでいたらしい。


下高井戸宿、上高井戸宿を抜けるとようやく国道20号線から外れ、すこし古い感じの家も残っている。

この日は京王線の千歳烏山駅から帰宅。28,000歩。(2019年11月2日)
2019年12月29日

甲州街道(2)

甲州街道2回目で、前回終了した京王線千歳烏山駅よりスタート。
しばらくは旧道沿いに進むが、すぐに国道20号線に合流することとなる。上高井戸宿の次の宿場は布田五ケ宿と呼ばれ。国領。下布田、上布田、下石原、上石原の5つの合宿であり、いずれも小規模なもので本陣や脇本陣もなかったとのことである。

国領からはまた国道20号線から離れて旧道を進む。
調布付近では水木しげるが住んでいた所とのことで、いろいろな所にゲゲゲの鬼太郎などの像があったりイラストが描かれている。写真は調布駅近くの駐輪場の外壁。


下石原に近づくと、少しずつ旧家も増えるが、下の写真のように、長い黒塀に囲まれた屋敷もあった。国道から外れているためかのどかな感じとなってくる。


上石原は新選組の近藤勇の生誕地とのことで下の写真ののぼりが多くたてられているが、ゆかりの建物なども無いようで、生誕の地としてのアピール力は少ないと感じた。


上石原を越え府中宿に至ると高札場が残っている。地方に行くと残っていることは多いが、このように東京から近いところに残っているのは珍しい。


高札場の向かい側には蔵造の酒屋があり、かなり古い建物のようだ。このあたりは国道から外れているためか、旧街道の雰囲気を残している。


この日はJR南武線の矢川駅から帰宅。25,000歩。(2019年11月19日)
2019年12月30日

甲州街道(3)

新年(2020年)初の街道歩きを始めた。今回は甲州街道3回目で、前回終了した矢川駅よりスタート。
しばらくすると立日橋で多摩川を渡るが、近くにある都道の日野橋は、昨年の台風19号の大雨により橋脚が沈下したため、いまだに通行止めとなっている。現在は川の流れを変えるため、河川敷には大型の重機が入り工事を行っていた。


多摩川を超え日野宿に入るが、この付近から石造りの建物が見受けられるようになる。また、近くには日野宿の本陣が残っている。これは東京都内では唯一残っているとされる建物であるが、この日は祝日の翌日であったため、残念ながら休館日となっており、残念ながら入ることはできなかった。


日野宿本陣を過ぎてすぐに、また石造りの建物が残っている。石造りが多いのは、大火事があったことが原因であろうか。


八王子市内で見つけた雑貨屋のような古い店も、日野宿にったような石造りの建物が、近代的な街並みの間に残っており面白い。


八王子から高尾にかけて。道の両側にイチョウの街路樹が植えられている。この時はもう葉は全て散っており、裸の状態であったが銀杏はまだ残っており、これが落ちてきているため木の周りは落ちた実が踏みつぶされ。独特のにおいが立ち込めている。大阪の心斎橋筋もイチョウ並木があるが、ここは銀杏を採取する権利を販売しているためか、道に散乱していることはほとんど無かったと思う。
高尾駅の近くに、写真のような黒塀の屋敷が見受けられたが、他の街道沿いではこのような黒塀は無かったと思える。地域的なものなのであろうか。


この日はJR高尾駅から帰宅。24,500歩。(2020年1月14日)
2020年01月20日

甲州街道(4)

甲州街道歩きの4回目で、本来は高尾から歩き出すところであるが、小仏峠に登る道が、昨年の台風19号の被害で通行止めとなっているためこの区間を飛ばし、JR藤野駅からスタートした。
駅から国道20号線に出てすぐのところに旧街道に降りる道があるのだが、ここも通行できない状態となっていた。少し先のところで道が崩れているところが見受けられたので、このためであろう。


仕方がないので少し20号線を歩き、旧道に入れるところから入った。関野宿は明治以降の大火でほとんど面影はのこされていない。関野宿をでて少し歩くとほとんど何も手を入れていないと思われる道となる。


関野宿を過ぎ、相模川にそそぐ支流の境川を渡り、相模国から甲斐国に入る。
最初の上野原宿には古い建物かある程度残っており、その次の鶴川宿にも少しはのこっているが、あまり宿場町とのイメージを持ちにくい。


鶴川宿からしばらくは中央高速道路沿いの道となる。途中には武田信玄が築いたとされる長峰砦跡があったか゜、これは中央高速道路の建設とその後の拡張によってほぼ完全に破壊されてしまっている。
この先に野田尻宿があるが、野田尻宿を示す石碑が宿場の面影はほぼない。この宿場のすぐ横には、中央高速道路の談合坂サービスエリアがあるが、ここからはこの気配は感じられなかった。


次の犬目宿の手前で峠道となるが、ここに座頭転がしと示された所があった。先導していた人の声を頼りに歩いていた(座頭)が、道を踏み外して谷に落ちたと言われているところであるが、目が不自由であってもあまり気にせずに旅をしていたのか、生活のためには旅をせざるを得なかたのであろうか。


犬目宿から山道を歩いていると、途中に塚木はなくなっていたがほぼ原形をとどめている恋塚一里塚(南側のみ)が残っていた。(3日前に降った雪が残っている)


小さな集落を超え県道から少し外れたところには、短い区間ではあるが、石畳の道が残っていた。何も説明している表示はなかったが、復元したものではなく、元々のものが残っていたと思われる。ここを下るとすぐに下鳥沢宿に入る



この日はJR鳥沢駅から帰宅。29,500歩。(2020年1月21日)
2020年01月28日

甲州街道(5)

甲州街道歩きの4回目で、JR鳥沢駅からスタート。鳥沢駅は下鳥沢宿と上鳥沢宿の間にあるが、この2つの宿場は1kmしか離れていないため、感覚的にはつながっているような感じがする。上鳥沢宿側には古い建物がいくつか残っており、下の写真は明治の中頃に建てられた旅籠跡。


上鳥沢宿から少し歩くと猿橋を通る。猿橋は「錦帯橋」、「木曽の桟」と共に日本三奇橋の一つと呼ばれているものであり、この橋は通ることはできないかと思っていたが、人は自由に通ることができた。この下を流れる川は狭いものであるが、高さは30mと谷が深い。このため橋脚はなく、両側から刎木(はねぎ)と呼ばれる四重の支えで支えている。



猿橋宿は、この猿橋から少し離れたところにある。猿橋宿からは1.5kmほどで駒橋宿、さらに1kmで大月宿、1.8kmで下花咲宿、0.6kmで上花咲宿と、短い距離の間にいくつもの宿場が並んでいる。このように短い間隔で小さな宿場がつながっているのは、他の街道では見られなかったものである。
このため隣り合う宿場で、問屋業務のような一つの機能を担う合宿(あいじゅく)として分担していたようだ。ここので下花咲宿と上花咲宿のように二つの宿場で分担しているだけでなく、すでに通った布田五宿(国領宿、下布田宿、上布田宿、下石原宿、上石原宿)のように五つの宿場で構成されているものもある。甲州街道を参勤交代で通る大名は信濃高遠藩、高島藩、飯田藩の三藩だけで、時々は尾張藩も利用した程度のほかも旅人も少なく大きな宿場は維持できなかったのであろう。
下の写真は下花咲宿の本陣。まだ実際に生活されている方がいるようで、内部の見学はできなかった。


上花咲宿からJR中央線に沿ってあるくようになるが、日陰となっているところには数日前に降った雪が残り、道路一面が凍っているところもあり、。これから歩くときは、その日の天候だけでなく、何日か前に雪が降っていなかったかどうかも注意しなければならないと感じた。


下初狩宿の真ん中を国道20号線が通っているが、古い家並や本陣も残っている。本陣の前には「山本周五郎生誕の地」の石碑があり、この本陣かと思ったがそうではなく、この近くで生まれただけのようである。


下初狩宿 を出るとすぐに中初狩宿となるが、ここにも本陣が残されている。


下初狩宿からは国道20号線を歩くこととなるが、歩道もないところが多く大型車両が頻繁に通るため、危険を感じる。大型車の優しい(?)運転手は徐行して通ってくれるが、ほとんどはスピードを落とさずに通り抜けていく。
このあと白野宿、阿弥陀海道宿を通るが、ほとんど宿場の雰囲気は感じられない。

この日はJR笹子駅から帰宅。27,700歩。(2020年2月5日)
2020年02月07日